東京パフォーマンスドールのどこに魅力を感じているのかまとめ

 昨年の後半は仕事以外を、ほぼほぼ東京パフォーマンスドールを見ることに費やしてきたような気がする。
 最初のうちは、公演ごとにちょこちょこ様子見をするぐらいのつもりだったのに、いつの間にか公演期間中に仕事の都合などで会場に行けないでいると、妙にそわそわしてしまうまでになっていた。
 1月31日からアンコール公演も始まることだし、なぜここまで、現在のTPDに魅力を感じてしまっているのか、現時点での気分をまとめておこう。

(1)落ち着いて見られる環境が魅力的
(2)メンバーが全員(ストレートな意味で)魅力的
(3)EPISODEごとに主役が変わるのが魅力的
(4)EPISODEごとに異なる挑戦を見せてくれるのが魅力的
(5)映像、音響、照明、演出、衣装などが魅力的
(6)Dance Summitがとにかく魅力的
(7)少しずつ成長していく様をじっくり楽しみたい
(8)TPD≠TPD。でも別にそれでいい


(1)落ち着いて見られる環境が魅力的

 TPDが行ってきた公演「PLAY×LIVE『1×0』」の会場は、シネセゾン渋谷の跡地でTPDの運営母体であるキューブが運営する小劇場「CBGKシブゲキ!!」(242人収容)だ。会場が小さい分、ほとんどの座席で良い音響で楽しめるし、空調もバッチリ。座席の前後が狭すぎるため開演後に入場してくる人がいると、その周囲の人が立ち上がらなければならないという問題は抱えているものの、列ごとの段差もきっちりとあるので、どこの座席からでもステージに集中できる。そんな構造の会場が本拠地だ。

 そこで行われるTPDの公演は、演劇、映像、歌、ダンスを融合したもの。それもあって観客は、最初から最後まで指定席に座り、舞台を鑑賞することを強いられる(アンコールのみ例外)。そして現在の公演は、前半が演劇、後半が「Dance Summit」と呼ばれるライブという構成で、それらが休憩時間を挟むこともなくシームレスにつながっている。
 こうした、いわば“きちんとした”スタイルは、昨今のアイドルのライブに慣れ親しんでいる人からすれば、窮屈に思えることもあるかもしれない。実際、“ライブに参加(参戦)する”スタンスを重視する人達からは、「立ち上がって騒ぎたい」という意見が根強いのも確かだ。

 自分自身も1×0のEPISODE 1〜2の頃、「Dance Summit」と銘打つからには、観客にも踊らせればいいのに……ぐらいに思っていたのだが、EPISODE 3あたりで、座ったまま静かにステージを楽しめる快適さに完璧に飼い慣らされてしまった。
 とくに、アイドル現場にありがちなやかましいコールやMIXの類が(ほとんど)ないのは嬉しい。ステージの上下で演者と観客が独特のエネルギーをぶつけ合って盛り上がっていくタイプのライブもあるが、TPDに関しては、客席からステージに過剰に介入することなく、ただただステージに圧倒されるだけで構わないのが、とても心地良い。
 結果、参加型のライブが集団戦であるのに対し、TPDの場合は個人戦のような感じで周囲のノイズに苛まれることなく集中できるのが非常に嬉しいし、こういう楽しみ方をできるのは、非常に貴重な環境であると思っている。
 極論、ステージに干渉するより、ひたすら鑑賞したい派にとって、こんなに楽しい場所はそうそうないのではないか。とも思っている。

(2)メンバーが全員(ストレートな意味で)魅力的

 TPDのメンバーは現在10人。その全員が(こう言ってはなんだが)ちゃんと可愛い。先代TPDも個性的な魅力を持つメンバー達で構成されていたが、外野に対しては「いや、パフォーマンスが良くて」「演出が〜」といった言い訳を強いられる局面が、当時のファンには多かったように思う(大好きだったけど!)。
 それと比べると、現TPDは全員のビジュアル的なクオリティが非常に高い。それでいて、全員が異なる個性を持っている。見に行くたびに好きになれる子が増えて、最終的には全員を応援したくなってくる。

 もちろん、メンバーの魅力はビジュアル面だけではない。例えば、歌やダンスに関してのレベルにはまだまだばらつきがあるものの、一定の基準を満たしている。そのうえで、それぞれがきちんと課題を持ち、公演ごとに一つ一つクリアしながら成長していることが伝わってくる。これも大きな魅力だ。
 恐らくだが、単に「芝居をする」「歌って踊る」という以上に、「作品を作る」「観客を楽しませる」ということについて高い理想を持っているのではないか(持たされているのではないか)。
 それ故、アイドル的にキラキラしているし、同時にギラギラもしている。しかし決して下品なところがない。佇まいにしろ立ち居振る舞いにしろしゃべり方にしろ、きちんと躾けられている様子で、見ていて不快になることがない。
 話す内容や言語表現についてはこちらが思わず脱力してしまうようなこともあるが、公演中、見るからに困難そうな演目をきっちり魅せてくれるだけの能力とのギャップだと考えると、むしろ好ましく思えるものだ。
 なお、先代TPDにとって2軍的な立場だったTPD DASH!!の名を受け継ぐユニットもあるが、現時点では子役グループといったところ。公演時もあくまで添え物という位置付けになっている。
 しかしEPISODE 5の直前に、主役を演じるはずだったメンバーが、体調不良を理由に降板するという事態に陥り、TPD DASH!!のメンバーが急きょ代役を務めるという出来事があった。わずかな準備期間ながら見事な代役を務められる実力の持ち主が、TPD DASH!!にいるということは、きちんと記憶しておきたい。

(3)EPISODEごとに主役が変わるのが魅力的

 演劇パートでは10人のメンバーで5組のペアを作り、EPISODEごとに主役を変えていくシステムも魅力的だ。

 さほど舞台経験を持たないメンバーに対し、演者としてのスキルを一気に向上させるという点で、このシステムは見事に奏功していた。これを実感できたのは、主役を演じたペアが次のEPISODEでアンサンブルに回ったときのことである。主役を演じているとき以上に、舞台上でそれまでよりも大きく見えることが多々あったのだ。
 主役を経験したことで自信がつき、存在感が増したというのも大きいだろう。しかしそれだけではなく、アンサンブルに求められる役割への理解度も、主役を経験することによってより深まったのではないか。
 結果、EPISODEが進むごとに2人ずつ舞台上での“大きさ”が増し、EPISODE 5の時点では誰もが主役たり得るグループにまで成長していた。

 前述のとおり、主役の1人が降板して代役を立てられるという事件も起きてしまったが、EPISODE 1〜5までを完走できた9人の結束力は、見ている側が思う以上に深まったのではないかと思う。これはマイナスな出来事の副産物でしかないが、グループとしての成長物語においては、とても大きな意味を持つことになったような気がする。

 見る側にとっても、各EPISODEで主役2人を中心に見ていくと、最終的に10人をきちんと見ることができることもあり、興味を持てないメンバーがいなくなるという効果があった。
 先程「見に行くたびに、好きになれる子が増えて、最終的には全員を応援したくなってくる」と述べたのは、まさにそういうことだ(もちろん同じEPISODEを複数回見ていても、好きになれる子が増える)。

(4)EPISODEごとに異なる挑戦を見せてくれるのが魅力的

 EPISODE 1〜5までの物語をネタバレと想像込みで説明してしまうと、以下のとおりだ。

※※※ネタバレ※※※

 10代を中心に人気を集めていたSNS「1×0」。「東京・シブヤに星が降り、孤独な世界をゼロにする」という謎の予言が書き込まれたことで社会問題になり、そのSNSは閉鎖されていた。
 東京パフォーマンスドールがCBGKシブゲキ!!で初めてのライブを行う日。メンバーの10人は渋谷駅前のスクランブル交差点から、渋谷の地下水脈に落下してしまう。後に判明するのだが、彼女達が落下したのはインターネットの中、1×0の世界だった。
 10人の前に突如出現する、五つの扉。その向こう側に行かないことには、この場所から脱出することすらかなわないと考えたTPDメンバーは、5組のペアに分かれる。
 ペアを待ち受けるのは、高度3000mの高所、外に出ようと扉を開けて歩を進めてもまた同じ場所に戻ってしまう不思議な部屋、荒れ果てた庭、クラブと思しき場所を取り囲む迷路、海へとつながる水路など。
 1×0の管理人を名乗る謎の人物、ゼペットによると、この世界は想像したことが形になるのだという。つまり五つの扉の向こう側に広がっていた世界は、それぞれの扉をくぐった2人が想像してしまった世界にほかならない。その中で彼女達は、さまざまな困難を乗り越えつつ、互いの結束を強めていく。

 それと同時に、ハッカーの集団が1×0の予言を実現するべく、テロを企てていることが明らかになっていく。ハッカー達の解釈は「星=飛行機」。世界中の航空管制システムのうち108つをハッキングし、飛行中の飛行機を墜落させることで、渋谷を含め「世界は0になる」という寸法だ。
 ハッカー達は自らが抱える“孤独”を癒すためにSNSに集い、自分達に孤独を味わわせる世界を、軽く憎んでいた。ただそれだけで、確固たる信念があるわけでもない。半ば愉快犯のようなものである。世界を0にしたあとの世界に思いを馳せる様子もなく、犯行後、自分達だけが安全圏にまで逃げ切れれば、このゲームはクリア。そんな幼稚で狂った動機でしかないのだろう。
 にもかかわらず、卓越したハッキング技術を持つ彼らは、1×0の実権を管理人であるゼペットから奪取し、ゼペットの力ではこのテロを食い止められないところまで事態は進行してしまっていた。

 そこでゼペットが、世界を救うべく1×0の世界に呼び込んだのが、TPDの10人だった。
 そもそも「1×0」の本当の意味は「I×O」で、「I」(私)という個人がつながることで「Our」(私達の)になれば、人々は孤独から離れられるし、大きな力を発揮できる……そんな意味が込められていた。ゼペットは「これから先、多くの人に愛されることになるであろうTPDならば、人と人をつなぐことができるだろう」と考えていたのである。あの予言もきっと、「渋谷の劇場に星(スター=TPD)が立ち、人々に愛され、人々がつながっていき、孤独な世界がなくなる」という意味だったのだろう。
 しかし、この予言を誤読したハッカー達によって、予言の形がゆがめられてしまう。そこでTPDの10人を1×0の世界に呼び寄せ、正しい形の予言を実現させようというのが、ゼペットの狙いだったと考えられる。

 各ペアは、その身に降りかかる困難をくぐり抜けながら、相方との関係性を通じて、それぞれが抱える孤独を一つ一つ小さなものにしていく。そして10人がそろい、「東京・シブヤに星が降り、孤独な世界をO(オー)にする」と強く願う。「想像が形になる世界」である1×0では、思いの強さがすべてを凌駕するということなのか、ハッカー達の目論見は文字通り砕け散り、世界は平和を取り戻すのだった。

※※※ネタバレ終わり※※※

 ……簡単に説明しようとしたはずが、ずいぶん長くなってしまった気がするが、描かれている世界の全貌が少しずつ解き明かされていくのと同時に、各EPISODEでは各ペアの抱える悩みや孤独、相方に対する憧れや反発、それらを踏まえたうえで必要とし合っていることなどが描かれていった。
 これは演者というより脚本の問題だが、情報量が多いということもあってか、物語世界を描くことと主人公の人物像を描くことがうまく噛み合わず、どちらも妙に説明過多に感じられる場面がちらほらあった。
 そうなってしまうと物語が気持ち良く転がっていかないし、人物への感情移入もしづらくなってしまう。SF的な設定を採用しているわりに、SF的な整合性を諦めてしまっているように見える個所や、回収される様子のない伏線なども気になった。

 もちろん、単なる芝居というわけではなく、クライマックスに主役の2人を中心としたオリジナル曲の歌唱を配置したり、EPISODEごとにボイスパフォーマンスや、ラップ、タップダンス、スキャットなど、新たな挑戦も盛り込んだりする必要性から、物語が犠牲になった部分もあったのだろうと思う。
 ただ、演者の育成という点で、単に芝居だけに特化するのではなく、こうした挑戦を盛り込む意欲は評価できるし、見ていて楽しめるものだった。同じEPISODEを何度も見たいと思えたのは、こうした(ある意味で分かりやすい)挑戦があったからこそだ。

 余談だが、個人的なEPISODEごとのお気に入り順は、4>2>5>3>1だった。
一番のお気に入りであるEPISODE 4は、主役2人の対比が一番明確。全体的にコメディタッチであるだけでなく、ほかのEPISODEでは物語の終盤に配置している楽曲(この回はラップ)を物語の折り返し地点に配置していることもあってか、中だるみすることなく、終始テンポが良く感じられた。それでいて、ラストシーンは分かりやすい形で感動的。EPISODE 5への予告も鳥肌が立ったものだ。

(5)映像、照明、演出、衣装なども魅力的

 最初に会場に足を踏み入れて驚くのは、ステージに置かれたセットの簡素さ。TPDの舞台では、ステージ奥と上手と下手に白い壁が設置されている(ちょうど反響板が置かれるような位置)。
その白い壁はただの壁ではなく、扉が隠されていたり、立方体や直方体が隠されていたり、映像を投影するスクリーンだったりする。一見すると無味乾燥なステージなのに、映像が投影されることによって、そこはさまざまな“場所”になる。そんな映像と芝居やダンスなどのコラボレーションは、TPDが持つ大きな武器。

 そんな映像表現の魅力をさらに増幅させるのが、音響や照明。その場その場で舞台への集中力を増すための効果的な使い方がされているだけでなく、あとで思い返してみると「ああ、あれは○○という意味を持たせる演出だったのか!」ということに気付けたりもする。舞台を見終わったあと、意図に気付けてしまうと、同じ内容の舞台を何度も見に行って、再確認したくなる。

 そして衣装。とくにDance Summitパートでは、曲ごとに異なる衣装が用意されているほか、EPISODEが進むにつれば衣装のバリエーションも増えていく。しかも、1人ずつ異なる衣装でありながら、10人がそろうことでコンセプトが明確になるようなデザインになっている。観客の「このメンバーにはこういう衣装が似合いそう」という想像通りのこともあれば、「こんな衣装も似合うのか!」と驚かせてくれたりもするので、毎回、新衣装が楽しみになる。

(6)Dance Summitがとにかく魅力的

 こうした魅力が渾然一体となって押し寄せてくるのが、Dance Summitパートである。バラエティに富んだ楽曲、激しいダンス、熱のこもった歌声、衣装の早着替え、照明やレーザーによる演出は、単なる“ライブ”ではなく、一つの“ショー”を作り上げようという意図が垣間見える。

 なお、Dance Summitのセットリストには、旧TPDの楽曲にリアレンジを施したものと、いくつかのオリジナル曲が組み込まれている。EPISODE 1でDance Summitパートで歌われるオリジナル曲は「DREAMIN’」のみだったが、EPISODE 2ではEPISODE 1の劇中歌「Lost Without You」が加わり、EPISODE 3ではさらにEPISODE 2の劇中歌「IN THE WONDERLAND」が加わり……と、物語の進行に応じて、Dance Summitにおけるオリジナル曲の数も増えていった。

 こうした形でオリジナル曲を増やしていく手法は、さまざまな意味で効果的だ。というのも、劇中歌はそれぞれ楽曲としてのクオリティが高いだけでなく、物語と密接に関係したメッセージが込められている。それがDance Summitで歌われると、観客は必然的にそのEPISODEを思い出すことになるため、感情移入度が増す。
 該当のEPISODEを見たことがない人にとっても、演者がただ歌詞を覚えて歌うという以上に強い意味や思いを、一つ一つのフレーズに乗せていることを感じ取れるはずだ。
 闇雲な新曲ラッシュに走るのではなく、少しずつ意味のある形で増やしていくことで、メンバーの成長を促しつつ、楽曲に命を吹き込んでいこうという狙いがあるのではないか。

(7)少しずつ成長していく様をじっくり楽しみたい

 実は正直、EPISODE 1〜2あたりの頃までは、Dance Summit単体での公演を望んでいる自分がいた。かつてのTPDが好きだったからこそ、そういう思いが強かったんだろうと思う。でも今は逆。Dance Summitはあくまで「PLAY×LIVE『1×0』」というパッケージの中にあるからこそ、輝くものではないかとすら考えている。
 1×0という物語、そこから生まれる新曲、それがセットリストに組み込まれるDance Summitという一連の流れがあるからこそ、ほかに似たもののない独自の魅力が際立っていると思っている。
 これはきっと、新しいものを生み出そうという制作陣の強い意志があってこそ成立するものなのだろう。ひょっとしたら、一回ずつ質の高い作品を作りつつ、演者を育成していく試みを形にしていくうえで、歌やダンスだけではない表現力を磨くべく、演劇という要素を組み込んでいるのかもしれない。
 このようなことを考えていくと、TPDが「2020年に東京で開催される国際大会のオープニングアクト出るようなグループを目指す」というのも単なるお題目や大風呂敷の類ではなく、けっこう本気なんじゃないかな……? という気にもなってくる。

 ただ、少し懸念もある。例えば今後、どこかのライブハウスでオールスタンディングのDance Summitが行われたとする。それはきっと観客も大いに盛り上がるだろうし、参加すれば楽しいに決まっている。でも、一度そこで“騒ぐ形”ができてしまったら、会場を再びCBGKシブゲキ!!に戻したとしても、観客は新たに生まれたその形を、これまでよりも強く欲することになるだろう。それはやがて、ステージを鑑賞するスタイルを壊し、ステージに干渉するスタイルの確立につながっていくであろうことは想像に難くない。
 もちろん、そうした流れが本格的になれば、自分自身はあらがうことなく、そしてこの場を去るわけでもなく、それなりの楽しみ方をするようになるのだろう。その楽しさ自体、これまでにTPD以外でさんざん体験してきたものだから、何ら否定はしない。TPDが今後、手っ取り早くファン層を拡大していこうとするのであれば、そういう日が来るのは必然だろう。
 でもそうなったとき、演劇パートは今のような形で受け入れられるのだろうか? という不安がある。そして結果、演劇パートの比重が軽くなっていくようなことになれば(演劇を中心とした事務所なだけにそうはならないと思いたいが)、今のTPDだけが持つ魅力は薄れていくことだろう。
 できることなら、そうはならないでほしい。でもそうなってしまうこともあるかもしれない。そうなったほうが、商業的な爆発は期待できそうだ。でもより多くの人達を納得させられるだけの実力が伴っていないうちに、知名度だけが上がってしまうのは、残念な事態を招きかねない。気付くとついつい、そんなことを考えてしまう。ついでに、資金的な部分で見切りをつけられて、なかったことにされてしまうのも怖い。

 とはいえ、ただの一人の観客がそんなことをいくら心配したって、何にもならない。今はただ、このクオリティのステージを、ゆっくり落ち着いて見られる時期を大事にしたいと思うし、なるべく多く経験しておきたいと思う。
 そしてメンバー一人一人が着実に成長していく様を見守りつつ、TPDという名前が大きなものになる日を楽しみに待ちたい。

(8)TPD≠TPD。でも別にそれでいい

 最後に、「この東京パフォーマンスドールは、果たして東京パフォーマンスドールなのか?」という、かつてTPDを好きだった人ならば、誰もが抱くであろう疑問について、自分なりに出した答えをまとめることにしよう。

 結論から言ってしまうと、現在のTPDはかつてのTPDとは別物だ。かつてのTPDを作り上げた中村龍史氏が関わっていないということ以前に、メンバーが違うのだから、そんなのは当たり前のことである。
 もちろん、たとえメンバーが違っていようとも、中村龍史氏が関わっていれば、それがTPDになりうるのではないか? という見方(願望)も理解できる。でも、それが実現していたとしても、やはりかつての——当時のファンの記憶の中で何年経っても色あせることのないTPDとは、別物になっていたはず。
 そうであるならば、名前といくつかの楽曲を継承してはいても、まったくの別物であると割り切ってしまったほうが、見ている側の気も楽になる。

 作り手からしてみれば、新規のグループとしてやっていくより、まずはかつてのファンの注目を集めたほうが、一定のブースト効果があるのではないか。そういう狙いも、きっとあったことと思う。それに対して嫌悪感を覚える人がいることも、よく分かる。
 正直なところ自分自身、「あの“伝説”のガールズグループがついに復活!」といった、かつてのTPDを“伝説”扱いしたキャッチコピーには違和感しかなかった。自分の中での伝説が、世間的にはさほど伝説じゃなかったことを気付かずに過ごすには、約17年という年月は長すぎたからだ。興味のなかった人達にとっても、忘れ去るのに十分な年月だろう。
 それだけに、この手の安易なキャッチコピーが、対世間においてどの程度の効果をもたらしたのかは分からない。ただ自分自身に関して言えば、違和感を覚えつつも、何となくあの頃の気持ちを思い出したのは確かだ。そして期待半分、訝しみ半分ぐらいで会場に足を運び始めた。その結果が、この有様。自分だけの例に限っていえば、作り手の作戦勝ちである。
 また、公演を一つの作品(パッケージ)として作り上げようという姿勢、ほかにないものを生み出そうという意志、そして観客に必要以上に媚びを売ろうとしない気骨(言葉を選ばずに言えば、“ちょっとお高くとまった感じ”)を感じられたときには、「ああ、これはTPDっぽいな」と思ったりもする。

 かつてのTPDのどこが好きだったのか、どんな活動が好きだったのかによって、この辺りの評価は分かれることだろう。
 ただ、自分の場合はひとまず、「別物として好きなんだけど、どこかにかつてのTPDっぽさを見出すことで、もっと好きになる」という、あばたもえくぼ的なマインドに陥ってしまったし、自分にとってはそれだけの魅力が今のTPDにはあるのだ。
 だからこそ、今のTPDにはかつてのTPDとは違うゴールに向けて、突き進んでくれればそれでいい。同じものは別に見たくないし、関わっている人間も時代も変わってしまった以上、同じものを作ることは不可能なのだから。

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コメント

  1. せーいち社長 より:

    はじめまして、同じ穴の狢のせーいちです。
    きっとシブゲキですれ違っていたりしてると思います。

    結構な長文を書かれてて、「熱いなぁ〜」と思いながら読ませて頂きました。
    私も同じように思っていたので、苦にならずに読めたようが気がします。
    特に(2)(4)(7)(8)については、(ほぼ)同意見です^^;

    ついでに言うと、TPDはアイドルとは言いにくいし、歌手っちゃ歌手だけどそうとも言い切れないし、じゃぁパフォーマーか?ってゆーとそれはそれでそういうことでもないんだよね的な。。。
    結局「TPDはTPDとしか語れない」・・・そんな気分です。
    そういう意味では、先代のTPDも新生TPDも完全な別物だけど、やっぱり同じものである気がするし、そしてそんなTPDにやっぱりはまってしまう。
    そんな今日この頃です。

    ところで「ビバケセ」は、やっぱり復活しないんでしょうかね??

  2. (TeT) より:

    コメントありがとうございます。
    あの会場に行っていれば、ほぼ間違いなくすれ違っているでしょうねw

    独自色の強い活動をやってきていて、それを面白いと感じる以上、とにかく応援をしたいと思っています。
    その一方で、最近立て続けに発表された対バンイベントへの参加については、なんとも微妙な気分なのですが……。

    今のところカバー曲も、なんとなくメッセージ性の強い楽曲を中心に選ぶことで、世界観を構築しようとしている気はするんですが、ビバケセは……どうなんでしょう。見たいような見たくないような。アレンジとダンス次第かなぁ……。

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